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明治から牛肉の鍋(すき焼き)を弘めた木村荘平のビジネス手腕とは?

約 3 分
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今でも有名なすき焼き店は数多くあります。

私は、東京の人形町にあるお店の割り下と肉の絡み方が絶妙のため、よく行くことがあります。

さて、時代はさかのぼりますが、明治時代でも有名なすき焼き店が存在します。そのすき焼き店についてのお話をご紹介していきます。




明治時代の先駆を駆け抜けた商才木村荘平のすき焼き店の真実に迫る

文明開化の明治には、時代を象徴する型破りな人間が多かった。時代そのものがドラマもどきだったからである。

そんな一人、木村荘平は、さながら明治の「牛鍋文化(すき焼き)」を象徴するような御仁。まだ流通革命だの大量仕入れだのといった観念などのなかった時代、いちはやく牛鍋チェーン店を計画したのだから、只者ではない。

木村荘平は、文明開化を象徴する牛鍋の人気をいちはやく見て取るや、東京市内にいろは四十八店をオープンさせることを計画、明治39年に66歳で他界するまで、少なくとも20数店を開店させたといわれる。

おもしろいのは、店のネーミングを決めるに当たって、すべての店名をいろはとし、それぞれを第一いろは、第二いろはというようにナンバーで区別したことと、店の経営を多数の愛人にやらせたことにある。

その荘平は、夜になると人力車で各店を回り、革袋を持って集金に努めたといわれ、荘太、荘八、荘十二などあいついで子供が生まれた。彼が認知しただけでも30人を超えたというから見事な多角経営。

自らいろは大王と称した。

30人の子供のうち、荘太は翻訳、評論などのほか、武者の小路の「新しき村」運動に参加。荘八は「牛肉店帳簿」「パンの会」などの洋画や挿絵、「東京の風俗」「東京繁昌記」などのエッセイーで知られ、荘十は小説家、荘十二は映画監督(代表作「兄いもうと」)として名をなした。

いろはは、明治19年ごろから評判になり始め、三田の四国町に本店があったが、明治37年ごろの値段は、牛鍋1人前が15銭。ロース20銭、ネギのぶつ切り3銭などで、大正の初めごろまでほとんど値段が変わらなかったと。

もっとも第一いろは、第二いろはなどナンバー付きの店のほか、ナンバーなしの番外店もあり、そこでは「いろは」の残りものを売り、値段も安かったというからなかなかの商才。

尚、荘平はいろはの座敷の障子に5色のガラスをはめこんで話題になったほか、日本で初めての赤れんが造りの火葬場をオープンさせたことでも異才ぶりを発揮。




こちらの方は料金が高くて利用者がなく、彼自身が第一号の客になったという伝説も残されている

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